尼崎市

あまがさきし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
市域の変遷
市域の変遷

  1916年(大正5)4月1日市制施行により尼崎市が誕生した。6,496戸、人口3万2,013人、面積7.588km2、県下で神戸・姫路両市についで3番目の市であった。1917年市章を制定、1922年旧城郭内に総工費9万円で新庁舎を新築した。1918年10月上水道を完成、1920年1月市立図書館を開館した。その他公設市場市営住宅市立尼崎診療所職業紹介所市民館公益質舗託児所など市営の施設を充実した。複雑となっていく市政の補助機関として1926年市内を25区(のち23区)に分ち各区に区長・区委員をおいた。この区制1941年(昭和16)の町内会にかわるまで存続した。1924年には尼崎都市計画区域が決定してその中心都市となり、現在の市への発展のわくぐみができた。1936年4月1日隣接する小田村解消合併、2万7,676戸、人口12万4,711人、面積16.35km2、全国第31位の都市に発展した。市南部の埋め立てと港湾の修改築によって鉄鋼・電力・石油をはじめとする臨海工業地帯が形成、阪神間の大工業都市となったが、それにともなって河川汚染・大気汚染地盤沈下などの公害が発生、特に1934年ころから激しくなった煤煙問題は市民の反対運動をひき起こした。1942年2月11日大庄・立花・武庫の3か村を合併し、人口28万人余、面積39.606km2、全国第11位の大都市になった。さらに第2次大戦中軍需工業の発展で人口33万人以上に膨張したが、疎開空襲の被害により終戦時には人口17万人に急減した。

  戦後1947年3月1日園田村を合併し、人口23万余、面積49km2となり現市域がほぼ確定した。阪神電鉄沿線の市場の繁栄から経済的な復興がはじまり、1950年の朝鮮戦争開始による特需景気をきっかけに製造業も復興していった。1954年には防潮堤を完成して高潮被害のうれいをなくし、1960年代の高度経済成長期にかけて南部臨海部を中心に重化学工業都市として繁栄した。北部農村地帯の住宅地化も進み、1970年には人口55万8,000人とピークを迎えたが、一方で公害などの都市問題が深刻化し、さらに高度経済成長の終焉と1970年代以降の経済構造変化のなかで臨海工業地帯も停滞、住宅地化も頭打ちとなった。1990年(平成2)には人口が50万人を割り、なお人口減少や都市活力の停滞局面が続いている。

執筆者: 山崎隆三

  2010年(平成22)4月1日現在の市域の面積は49.97km2、推計人口は461,820人、世帯数は208,635世帯である。

執筆者: apedia編集部

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