寛政12年(1800)「寛政年中水論絵図」(地域研究史料館蔵、岡治茂夫氏文書)より
集落の南側や中央部には広い水堀が残っています(現状は田や用水路)。集落西側の「川田」「田引」も水堀の跡と思われます。