江戸時代の貴布禰〔きふね〕神社 『摂津名所図会〔ずえ〕』より

中世尼崎町の総社として、もとは現北城内北西部にあったと伝えられますが、近世尼崎城築城にともない西屋敷役人町(現西桜木町)に移転。さらに正徳5年(1715)この図のように城下西端(現在地の西本町〔ほんまち〕)に移されました。図中、境内前面を通る中国街道は、竹谷〔たけや〕御門から玄蕃〔げんば〕堀の橋を渡って出屋敷の町並みに至っていました。