田熊汽缶製造
たくまきかんせいぞう
(タクマより転送)
(タクマより転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
満州事変以来増えつづけていたボイラ需要は、1937年(昭和12)7月の日中戦争勃発を契機に急増した。このころ、創業者田熊常吉が開発したボイラはすでに納入実績を重ねていたが、ボイラの缶水を安定的に循環させる新機構を備えた「タクマ式」は、明治末年彼が40歳近くにして汽缶設計を志し、幾度かの失意と挫折を越えて実用化したものであった。需要急増を前にして翌1938年6月、田熊と安宅商会の折半出資によって公称資本金300万円(払込75万円)の田熊汽缶製造(株)が尼崎市浜字海地17番地(現浜1丁目)に設立された。尼崎の本社工場(敷地約1万9,000m2)と同時に計画された播州の新工場(9万2,000m2)で、田熊が特許権をもつ「つねきち」(タクマ式)ボイラをはじめとする各種汽缶の量産を行なおうとするものであった。折から軍需をふくむ需要殺到を背景に、新会社の業績は伸長した。翌1939年から1945年までの当期利益は半期ごとに40~50万円を計上、払込資本金も7年間で約15倍、1,100万円に増加した。1943年からは4か所の工場がすべて軍の管理工場・軍需会社に指定され、舶用ボイラを中心に増産がすすめられたが、尼崎の工場は1945年6月15日の空襲で被災、全焼した。
1947年、大阪市西区に尼崎営業所が移転、実質的本社となる。1972年、環境機器など事業の多角化にともない、社名は(株)タクマに改称された。
参考文献
- 『タクマ50年史』 1989