ダンスホール
ダンスホール
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
明治の鹿鳴館を別にすると日本では公・私邸でダンスパーティを行なう慣習はなく、社交ダンスはもっぱら専属の女性ダンサーと男女のダンス教師を置いた商業的娯楽兼レッスン場であるダンスホールにおいて行なわれた。ダンスホールは第1次大戦後東京にあらわれたが関東大震災を契機として中心は兵庫県に移り、1927年(昭和2)には県下で6ホールが開設されていた。尼崎でも同年7月に「尼崎ダンスホール」がはじめて開かれ、1929年10月には玉江橋近くに移転。その後1930年までに「杭瀬ホール」(1933年「ダンスタイガー」と改称)、東長洲に「ダンスパレス」、大物北口に「キングダンスホール」とあわせて4ホールができた。大阪府はダンスホールを許可しなかったので大阪から客が流れ尼崎はダンス王国といわれ繁昌した。ダンサーの収入は、3分のダンスでチケット1枚(10銭~20銭)を売り上げ、6割をホール、4割をダンサーが得る歩合となっており、平均月収が約100円と比較的高収入であった(昭和5~7年、尼崎ダンスホールの場合)。1931年、1932年ごろの労働運動のさかんなときには、ダンスホール争議も行なわれた。戦時中は取り締りが次第にきびしくなり、1940年にはすべて廃業した。戦後は復活したが1950年ころから衰退した。
参考文献
- 東郷実「ダンサーの生活実情調査-戦前の尼崎における-」『地域史研究』第5巻第3号 1976
- 永井良和「<川向こう>のモダニズム-昭和戦前期における阪神国道のダンスホール-」『TOMORROW』第9巻第2号 1994