ダンスホール争議
ダンスホールそうぎ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1931年(昭和6)4月からダンスホール税が徴収されることになったのにともない、尼崎・杭瀬・キング・パレスの4ホール経営者はチケット20銭の売上げの内9銭支給としていたのを、税金分をダンサーに転嫁したため、ダンサー達は全労阪神地方連合会に応援を求め21日からスト突入を決議した。しかし警察が県条例違反で経営陣に警告を発する等の動きもあり、無用の犠牲者を出さないようにするとの配慮から、山下栄二・高田剛、武川ゴム争議の争議団女工らが各ホールにビラを撒きアピールしたにとどまった。翌1932年8月にはダンスパレスで7人の解雇解消を求める争議があった。また同年10月売買問題のもつれから閉鎖を余儀なくされた杭瀬ダンスホールでは、8月以降の未払賃金支給を求めて、国家社会労働同盟の藤岡文六に支援を依頼した(いずれも争議結果未詳)。1934年6月4日にはキングダンスホールで、ダンサーを侮辱したのに反発して午後7時を期して一斉にストに突入。同館を臨時休業に追い込んだ。