尼崎紡績
(ニチボーより転送)
1889年(明治22)6月、資本金50万円の有限責任会社として創立(1893年商法一部施行により株式会社となる)。所在地は旧尼崎町の辰巳町。尼崎の商人本咲利一郎、梶源左衛門、大塚茂十郎、中塚弥平らに旧尼崎藩の士族が加わって、尼崎側28人、それに広岡信五郎(初代社長)・木原忠兵衛ら大阪の有力財界人17人が参加して発起した。当初は5万錘(精紡機)で、資本金100万円の計画であったが、資本募集の困難から2万錘、50万円で出発。1891年2月、まず1万錘をもって操業を開始した。兵庫県下最初の1万錘紡績で、本格的大紡績工場の先駆であった。
尼崎近辺は日本で最良質の阪上綿の産地であったので、その綿花を利用することが設立目的の一つであったが、実際には安価で比較的長繊維のインドや中国・安南産の綿花が用いられた。労働者は、当初は近辺からの通勤工ばかりであったが、1891年10月初めて遠隔地募集を行ない、数年後には中国・四国・九州が労働力の主たる供給源となった。1895年末の労働者数は2,544人。技術的に困難な細番手と中番手の生産に主力を注ぎ、これが尼紡発展の一つの要因となった。精紡機は、1891年に2万7千錘であったのが、1901年には4万5千錘と倍増。その後、日露戦争を契機として飛躍的に発展した。1906年には織布工場として東洋紡織を資本金200万円で設立し、1908年にそれを吸収合併。1914年(大正3)に東京紡績、1916年に日本紡績を合併し、33万錘、織機2,682台を数えた。
さらに第1次世界大戦後の反動恐慌のなかで、1918年6月に摂津紡績を合併して、資本金3,050万円精紡機56万錘、織機4,491台となり、大日本紡績(株)と改称、日本最大の紡績会社となった。1964年(昭和39)4月社名をニチボーに変更、さらに1969年10月日本レイヨンと合併して新社名をユニチカとした。日本レイヨンは1926年(大正15)大日本紡績から分離して創立されたもので、43年後に再び合流したのである。なお、1900年(明治33)に建築された赤れんが造りの尼崎紡績本社建物が、ユニチカ記念館として現在も故地にそのまま残っている。
尼崎紡績が創設された1889年(明治22)の8月、旧尼崎町の東端にあたる辰巳町において、尼崎工場の建設工事が開始された。各種設備の工事はおおむね1890年中に完成し、試運転を経て1891年2月13日、尼崎工場が開業した。1894年5月下旬に第2工場が竣工し同年中に稼働、続いて1897年4月には第3工場が竣工し、これも同年中に稼働した。この結果、尼崎紡績本社3工場を合わせると、敷地面積17,903坪、工場建物計140棟7,362坪437、精紡機計45,212錘という規模となった。なお1908年に東洋紡織を合併し、大阪府西成郡津守の旧東洋紡織敷地に新工場を建設して以降、尼崎紡績の主力工場の地位は尼崎工場から津守工場に移った。
1917年(大正6)6月、尼崎工場に隣接する小田村杭瀬字松ヶ下に、敷地30,339坪、建物5,320坪891の新工場が竣工し、尼崎紡績が大日本紡績と改称した直後の1918年6月に操業を開始した。同工場は尼崎工場の一部という位置付けであったが、1922年に杭瀬工場と命名され、翌1923年にはふたたび尼崎工場とされ、旧来の尼崎第1・第2・第3工場の設備を吸収していった。新工場設置にともなって、1918年後半から旧第1工場取り壊しが始まり、1932年(昭和7)には旧第2・第3工場も取り壊された。この結果、旧尼崎紡績時代の建物は、のちにユニチカ記念館となる旧本社事務所のみとなった。新工場は、1941年12月には戦時下綿紡集中生産の操業工場として精紡60,596錘・撚糸34,292錘・織機1,000台を記録、1943年10月には陸軍大阪被服支廠監督工場となるなど、戦時生産体制へと組み込まれていった。
1945年6月15日の空襲により、尼崎工場は紡績・織布両工場など多くの施設を焼失し、全機械設備の91%喪失という壊滅的な被害を受けた。その後、残存した宿舎を利用して縫製工場として再発足することとなり、1946年7月ミシン100台をもって操業を開始した。1950年9月のジェーン台風の際には、高潮による大きな被害を受けた。その後操業を続けたが、1965年3月をもって尼崎縫製工場は廃止された。
参考文献
- 『ニチボー75年史』 1966
- 『ユニチカ百年史』 1991