マッチ工業
マッチこうぎょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
マッチの製造販売は1870年(明治3)横浜で始まったとされるが、尼崎では1877年ころからである。1881年4月には、小森純一ら3人の士族が資本金1,300円で別所村に慈恵社を設立した。尼崎には一時23社もあったが1886年に4社に減少、明治20年代には共拡社(慈恵社の後進といわれる)・日清社(別所村)・阿波燐寸製造所(旧城郭内東三の丸)の3社が併立し、清国市場をめあてに活況を呈した。紡績業につぐ重要産業であった。1895年には小嶋燐寸製造所、1896年には尼崎燐寸製造(株)が設立され5社となった。共拡社は1891年に燧豊火柴廠〔すいほうかさいしょう〕と改称し、さらに1897年には小森燐寸製造所と改称、翌年阿波燐寸を買収した。1898年の生産量は763万9,000ダース、金額にして14万6,178円。マッチ工業は対清輸出産業であったため、対清政策の影響をもろにうけ、また小資本のため会社経営も浮沈が激しかった。1894年の小森燐寸製造所の概況報告書によれば、一人一日の平均雇賃金は8銭8厘余とされている。製函・箱詰・軸並などは主として出来高払いで、農作業日雇賃などと比較しても著しい低賃金であった。尼崎のマッチ工業は、やがて神戸・姫路に圧倒されることになった。
参考文献
- 北崎豊二「明治期におけるマッチ製造業の発展-阪神地方を中心として-」『ヒストリア』第26号 1960