メーデー
メーデー
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
我が国のメーデーは、1920年(大正9)5月2日東京で始まり、翌1921年からは5月1日に大阪でも開かれ、以後全国に拡大された。尼崎の労働者が組織的に参加したのは1922年大阪大会への参加が始まりで、1925年には西本町の貴布禰神社に総同盟尼崎連合会の組合員ら約500人が集まり、阪神電鉄の庄下〔しょうげ〕(尼崎)停留場までデモ行進した(尼崎地域初のメーデー集会)。その後大阪大会に多数が合流した。大阪メーデーから完全に独立した尼崎独自のメーデーは1926年が最初で、総同盟尼崎連合会傘下の労働組合員らが旧城内三之丸に集まり、総同盟尼崎連合会の根崎貞儀らが演説し8時間労働制の断行・最低賃金確立・悪法撤廃などを可決したのち、市内をデモ行進して三之丸に戻り解散した。翌1927年(昭和2)総同盟・組合同盟の分裂を口実として尼崎メーデーは禁止されたので組合同盟約600人は大阪メーデーに参加、総同盟の100人は映画鑑賞を名目に旧城内平和館に集まったが警察に解散させられた。これを教訓に、1928年に統一メーデーが持たれたが1929年合同紡神崎工場争議を理由に再度禁止され、同年総同盟尼連傘下組合は阪神貸切電車で600人が西宮大会に参加、阪神西宮駅から広田神社までデモ行進した。1934年の参加者は4団体8労組908人、神田南通6丁目広場から杭瀬の熊野神社までデモ行進した。1936年2・26事件の戒厳令を理由にメーデーは全国的に禁止され、第2次大戦後の1946年に復活、尼崎では記念公園に約1万人が集まった。