リーバ・ブラザーズ争議
リーバ ブラザーズそうぎ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1910年(明治43)イギリス系資本の石鹸会社として、大庄村又兵衛新田に設立された日本リーバ・ブラザーズでは、1919年(大正8)3月友愛会大阪連合会武庫川支部が結成され、8月700余名が3割賃上げなどを要求して半日サボタージュを敢行、会社の譲歩を勝ち取ったのに続いて、1921年6月30日団体交渉権確認、解雇手当その他7項目の要求を掲げて争議に入った。7月3日武川ゴム争議の争議団との合同演説会・デモ行進などを交え、13日(1)横断組合の団体交渉権確認、(2)賃下げをともなわない時短、(3)半年間は賃下げ・解雇者を出さない、を勝ち取り解決した。記録に残る尼崎最初の団体(労働委員会)制度の確立とされる。同年11月末、会社は尼崎工場の整理方針を打ち出し、労働者側は解雇手当制定などを要求して争議に入り、200余人が12月2日神戸本社へ押しかけた。安藤嘉右衛門らが代表して交渉し解雇手当、帰郷旅費については大綱解決したが、長期勤続者の解雇手当で紛糾、8日に至り警察署長の調停で解決した。翌1922年3月23日、扶助規定改正・定期昇給実施・最低賃金改正などを要求して全職工がサボに突入。会社は工場閉鎖し、職工150人を解雇したが、希望者の復職・白米の扶助などの条件で4月19日に至って解決した。