一向一揆
いっこういっき
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
戦国時代、一向宗門徒がおこした一揆。1533年(天文2)山科本願寺(現京都市山科区)の焼討ち後、一向一揆勢は細川晴元に抵抗していった。尼崎地方では正月2日、大物に在陣する松井越前守宗信を攻めて数人を討ち取るなど当初は一揆勢が優勢であった。しかし、3月に入り一揆勢が伊丹城を攻めたときに、木沢長政は京都の法華衆を集めて伊丹城を救援した。この戦いで一揆側に500人近い戦没者が出るとともに、摂津国下郡(西摂)の村々を木沢方が焼討ちしたので小競り合いが生じたという。細川方と一揆勢の小さな衝突は1536年(天文5)まで続き、同年3月26日には尼崎地方で4回目の武力衝突が起こって晴元勢は椋橋〔くらはし〕城(現戸ノ内町)、次屋城、西難波に布陣した。中島一揆勢は富田中務という部将と協力して攻撃し、西難波において大勝した。その後の交戦は大坂地方へと移っていった。44年後の1580年(天正8)、織田信長と一揆側の講和が成立するまで武士と一揆の抗争は果てしなく続いた。