一洲津

いちのすつ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  鎌倉時代にあった津と関の名。1196年(建久7)6月、太政官は東大寺重源の申請により、摂津国内の魚住・大輪田泊を修復し、一洲小島を、船が安全に着岸できるよう堅牢な港として整備することとした。経費としては通行する船舶から神社仏閣権門勢家の区別なく石別一升を納めさせて充て、河尻(河口)付近の住民を人夫として雇用するよう摂津国司に命じている。一説にこの一洲の津を神崎津とするものがあるが、むしろ鎌倉時代の河口に近く燈炉堂のあった大物浜付近とみる方が妥当であろう。1315年(正和4)5月、東大寺東塔再興の費用に充てるために、摂津兵庫一洲渡辺の三か津で徴収される目銭(「めぜに」あるいは「めせん」、「もくせん」とも、通行税)の半分が寄進された。やがて一洲より南の尼崎に東大寺が新関を築くと、興福寺春日大社の関は一洲から河上の神崎へと移った。尼崎の新関は東大寺八幡宮の経費に充てる名目で船別に目銭を徴収したが、それは違法だと問題視された。

執筆者: 田中勇

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