七松
立花地区の大字。市域中央部やや西に位置する。中世には橘御園の荘域であった。史料上の初見は「細川両家記」永正17年(1520)2月条(『尼崎市史』第4巻)で、「享禄以来年代記」天正7年(1579)11月24日条(同前)には七本松とある。同年12月13日、この地で信長が荒木村重の一族を虐殺したことで名高い。
近世には旗本船越氏(維貞系)の知行所であった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に675.45石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に675.24石とある。水堂井に属した。氏神は八幡神社、寺院は浄土真宗本願寺派弘誓寺。ほかに近世には浄音寺があった。七松共同墓地応永4年題目板碑をはじめ、同墓地には室町期の題目板碑が3基残っている。
1889年(明治22)以降は立花村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1934年には七松・水堂地内に東海道線の立花駅が開設され、1933~1935年には七松・水堂・三反田にまたがる橘土地区画整理により駅周辺市街地が造成された。1966年の住居表示により七松町・東七松町・南七松町となったほか、一部が西難波〔なにわ〕町・立花町・三反田町となった。1962年に尼崎市役所の新庁舎が建設され、北城内から移転した。
『立花志稿』が、七松に伝わる神社創建と地名に関する伝承を記録している。それによれば、七松はかつては葭原村と称し、源頼信(多田源氏の一統、源満仲三男)が1019年(寛仁3)の刀伊の入寇(女真族と見られる海賊が九州北部に来寇した事件)を鎮圧した際神霊に感じ、田地73町歩を寄進してこの地に八幡宮を勧請した。もともと松1本があったところに6本を移植したので七本松または七ツ松八幡宮と称するようになり、村名も七本松または七ツ松と称するようになったという。
源頼信と七松のつながりを傍証する文献史料は未詳であるが、七松の北側に位置する生島荘の開発者が多田源氏の源実国であるので、七松の開発初期においても多田源氏が関与した可能性はあり、上記の伝承もこれに関わる何らかの史実を反映したものである可能性は否定できない。