七松共同墓地応永4年題目板碑
ななつまつきょうどうぼちおうえい4ねんだいもくいたひ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
七松町3丁目の墓地の中央に近く、下端を埋めて建っている。花崗岩〔かこうがん〕製で完全。上端を山形に造り、その肩以下を額部〔がくぶ〕とする。額部の下、断面をコの字状に削平した身部〔みぶ〕の輪郭中央に題目を配し、題目と輪郭内下端に陽刻した蓮華座〔れんげざ〕との間に1行と題目の「華」の左右に各一行の銘文を陰刻。
銘文中の は応永の簡略で、銘文としてはまれに例がある。不明の字は法名が磨滅したものであろう。本興寺の縁起によると、開山日隆上人が1419年(応永26)に堺からこの地へ渡来し、はじめて日蓮宗を布教したと伝えている。ところが同寺の墓地に本興寺応永23年題目板碑があるとともに、この応永4年題目板碑が分布しているところから、日蓮宗の尼崎への伝播は本興寺の縁起説よりはやく南北朝時代にさかのぼる。同宗の教権が拡張した基盤の上へ日隆上人が渡来し、本興寺を開いたことを示す資料として大きな意義をもつ遺品。
参考文献
- 『尼崎市史』第10巻 1974