三好長慶
みよしながよし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
戦国大名。三好元長の子。官途は筑前守・修理大夫。幼名千熊丸、通称は孫次郎。1533年(天文2)わずか11歳で一向一揆と細川晴元との講和を仲介し、1539年には摂津西半国守護代として越水城(現西宮市)を預けられた。はじめ忠実に父の仇である晴元政権を支えた。1547年摂津舎利寺(現大阪市生野区)の戦いで頭角を現わし1549年には江口合戦で晴元を京都から追放、一時は細川氏綱を擁して畿内に号令した。1550年(天文19)本興寺において晴元方の伊丹親興と和睦した。1552年には丹波を攻略、1553年には将軍義晴を近江へ逃亡させ幕府の実権を掌握した。1560年(永禄3)には河内・大和を平定して城和摂河泉淡丹讃阿の9か国にまたがる版図を形成したが、晩年は松永久秀の台頭を許した。1542年守部村・大島荘浜田村に、1556年(弘治2)本興寺に禁制を掲げた。
参考文献
- 長江正一『三好長慶』 1968 吉川弘文館