三平井組・大井組水論
さんぺいゆぐみ おおゆぐみすいろん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1592年(天正20)、先に本堰を築いた大井村々が干ばつにさいして新堰を造ろうとしたため、三平井村々と争いになった。これは双方の農民が槍・長刀を持っての大乱闘となり、6人の即死者を出した。おりから領主の大谷氏が文禄の役に出動中で不在であったために、庄屋7人が責任を問われて斬罪となった。取水場所である猪名川と藻川の分岐地点付近での水流が一定しないため、先例となるべき分水協定が成立せず、その後も水争いが繰り返された。1670年(寛文10)の水論は、三平井の堰と下流の大井の堰の間は29間として解決したが、その後も1790・1793・1797年(寛政2・5・9)、1866年(慶応2)と渇水の年や水流の変化により藻川に水が流れにくくなると、大井側からの掘登りや三平井側の横堰をめぐって争いがおきた。