三菱電機伊丹製作所
みつびしでんきいたみせいさくしょ
(三菱電機より転送)
(三菱電機より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
長崎、神戸の両造船所に設置されていた電機工場を、造船所から分離して三菱電機(株)が設立されたのが1921年(大正10)。伊丹製作所は、その神戸製作所大阪工場として、園田村南清水・御園〔みその〕、立花村塚口にまたがる33万m2の敷地に工場を建設、1940年(昭和15)12月操業を開始した。前年には、ヨーロッパを舞台に第2次大戦が始まり、国内も戦時体制に移りつつあって、「陸軍航空五ヶ年計画」にもとづく軍用航空無線機の生産が要請されていた。
すでに数年前から、日本無線電信電話(株)の技術によって舶用無線機が作られていたとはいえ、当時の技術はまだ未熟で、最初に手がけた「九四式飛2号」という機種など10台作るのに2年がかりであったという。しかし、通常労働者の初任給1か月30円程度であった当時、この軍用無線機は一台3,800円、そのうえ何十台分もの前金が受け取れるドル箱であった。1941年3月には航空機用計器などの精器部、同年11月28日には変圧器・電鉄工場の主力が同社神戸製作所から移転し(同社社史の記述による、ただし同書収録年表は変圧器・車両用電機品等の移管を1942年1月14日としている)た。1944年1月1日、大阪製作所から伊丹製作所へと改称、同年には空襲を避けるための疎開が始まり、豊岡・城崎・多紀郡福住村などに工場は分散し、そのまま敗戦を迎えた。
戦後1947年に復活した無線機部は1953年、伊丹製作所から独立して無線機製作所となり1965年通信機製作所と改称した。
参考文献
- 『三菱電機伊丹製作所四十年のあゆみ』 1981