日本電線製造
(三菱電線工業より転送)
1920年(大正9)2月、尼崎市内の古河系2工場-横浜電線製造大阪工場と古河鉱業尼崎工場(1913年7月に古河合名が設置した尼崎煉銅工場)とを古河合名が現物出資し、西区南境川町で操業していた日本電線製造(株)と合併、資本金500万円で新発足した。思惑取引で巨額の損失を出した大連事件を契機とする、古河コンツェルン再編の一環であった。横浜電線製造大阪工場は、大阪天満与力町に創業された矢部電線を1910年(明治43)横浜電線製造が10万円で買収したのが端緒で、1912年10月、尼崎町大洲に新工場(大阪工場)を建設し移転、操業していた。工場は敷地3万7,000m2、土地・建物・機械類の投資総額67万余円、本社の設備評価額をも上回る主力工場であったため、合併後は境川の工場を尼崎に集約、本社工場とした。
旧日本電線製造は1905年創業、古河合名大阪支店の有力取引先で、1917年の株式改組に際して古河は20%の株式を取得していたが、合併後の持ち株比率は横電分も含めると83%を占めることになった。
新発足した日本電線製造(株)は1931年(昭和6)、東京の日本電線(株)と区別するため使われていた通称の、大日電線(株)に改称、1949年上場して業界の有力3社に次ぐ位置を占めた。1964年には、その日本電線と合併して、大日日本電線(株)となり、1986年7月からは三菱電線工業(株)となった。
横浜電線製造大阪工場の尼崎町大洲における開設年月は、尼崎市役所文書『工場票』には1912年(大正元)8月、古河電気工業社史『創業100年史』には10月20日と記録されている。社史の前後の記述は具体的であり、後者が正しいと考えられる。1920年2月に横浜電線製造大阪工場が日本電線製造に現物出資された際、同工場付属電池工場のみ横浜電線製造に残り、同年4月22日に同社の商号変更と増資により古河電気工業が設立されると、同年5月1日に古河電気工業大阪電池製作所と改称した。
参考文献
- 『創業100年史』 1991 古河電気工業