上之島村分村問題
かみのしまぶんそんもんだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
川辺郡上之島村は江戸時代以来本村と皮多村の高松とから成っていたが、三新法後の1880年(明治13)7月の連合戸長役場制によって水堂村など6か村と連合して第8戸長役場管轄となり、上之島村に戸長役場が置かれた。これにたいして各村から一村単独の戸長役場設置の要望があり、同村でもその願書を提出したが、県はそれを認める前提として戸長公選を命じた。ところが当時約20戸の本村にたいして高松は約80戸であったので、選挙によって高松から戸長が選出されることになることを忌避した本村では、本村のみの投票で戸長を選出することを願い出たが、これが県から却下されたので、ここに本村と高松との分村願いが本村7人、高松4人の村中惣代署名の上で1881年7月に提出された。この分村問題は、本村の差別意識に発したものであったが、高松側の長年にわたる差別に抗して独立したいという強い意識をも反映したものであった。しかし旧慣尊重の三新法のもとでは認められず、分村は実現しなかった。1877年の小学校開設のさいに、高松に公木小学校を独立して開業したのも、同様に当時の地域の差別と独立の意識の結果であった。
参考文献
- 『尼崎部落解放史』 1988 尼崎同和問題啓発促進協会