上食満
かみけま
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
園田地区の大字。市域北東部、藻川の西岸、中食満・下食満の北に位置する。上食満の史料上の初見は1617年(元和3)「摂津一国高御改帳」(『尼崎市史』第5巻)で、これよりさき1605年「慶長十年摂津国絵図」には上食満を村高をあげて飯満と記されている。
近世初期には幕府領、1662年(寛文2)に村の大部が旗本服部氏知行所となり、極小部は幕府領、または京都所司代・大坂城代領であった。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」には145.072石、「天保郷帳」に149.334石とある。三平井組と内井組に属した。氏神は稲荷神社。ほかに大将軍社があったが1912年(明治45)稲荷神社に合祀された。寺院は浄土真宗本願寺派浄宗寺。村の芸能として食満の獅子舞が伝えられている。
1889年(明治22)以降は園田村、1947年(昭和22)以降は尼崎市の大字となった。1991年(平成3)の住居表示により食満の一部となったほか、一部が田能・猪名寺となった。