下地中分
したじちゅうぶん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
中世、荘園領主と地頭との紛争・相論を下地(土地)の折半という形で解決した方法。鎌倉時代の地頭は、しばしば実力で荘園の年貢や下地などを押領したので、荘園領主との争いが絶えなかった。その解決策の一つとして、下地を折半ないし2対1、3対1などに分割し、互いにその領有権を認め、侵略しないよう取り決めたもので、鎌倉中期ころから激増した。市域でも、いつころか、杭瀬荘の領家藤原氏と地頭との間で下地中分が行なわれていたが、14世紀のはじめ、東大寺領長洲荘の雑掌澄承僧都によって新開荒野を押領されたため、地頭が鎌倉幕府に訴え、地頭分として新開荒野の半分の知行を安堵されているような例がある。この場合は、地頭が隣荘から侵略されているのである。
参考文献
- 安田元久『地頭及び地頭領主制の研究』 1961 山川出版社