中在家町
近世以来の尼崎町の町名。1618年(元和4)に開始された尼崎城の築城にともなって、宮町とともに城の西方に新たに建設された。中在家町は宮町の南の浜につくられ、生魚問屋をはじめ漁業関係の商人や漁民が多く居住した。城地にいた漁民や魚商人を戸田氏が大垣に転封する1635年(寛永12)までに移転集住させたものであろう。同町には当初東部の戎の浜に、1758年(宝暦8)の移転以降は西の大浜筋四丁目に魚市場があり、近海や西国各地から魚が入荷し、尼崎だけでなく大坂・京都にまで出荷するなど、生魚取引の中心地であった。魚市場から南の海へは、碇の水尾と呼ばれる水路を利用した。「尼崎領尼崎町本地子」(金蓮寺〔こんれんじ〕旧蔵文書写)には戸田氏の時代の石高111.2石、地子米55.6石、「築地町式目帳」(『尼崎市史』第5巻)には1769年(明和6)の惣町間口1,418.5間、「城内・城下間数・家数書上げ」(年不詳、同前)には家数327軒とある。貴布禰神社の夏祭に際して、同町が繰り出すのは特徴的な舟檀尻〔ふなだんじり〕であった。氏神は事代主神社(近世には浜戎社)であり現在は祠が残っている。寺院は浄土真宗本願寺派浄善寺。同宗同派西性寺もあったが1945年(昭和20)戦災で焼失し神田南通に移転、1969年には栗山(現南塚口町)に再移転した。
1930年の町名改正と1958年の土地区画整理により北側部分が西本町の一部となった。魚市場は1880年代ころから急速に衰退し、第2次大戦期は魚類統制会社の尼崎営業所となり、1950年4月の統制撤廃とともに中央魚菜市場内へ移転した。宮町との境の本町筋が本町通商店街として栄えたが、1945年家屋疎開の対象となり消滅した。
中在家町は1618年(元和4)に始まる尼崎城築城にともなう城下町建設により新たに形成された町場であると考えられるが、その一方で、「中在家」という地名を記す中世史料が存在する。1308年(徳治3)4月21日「平盛綱田地売券」(『大日本古文書』大徳寺文書之三、『尼崎市史』第4巻所収)及び1373年(応安6)8月26日「野地・前田田数目録」(京都大学総合博物館所蔵宝珠院文書1凾81号、尼崎市立地域研究史料館紀要『地域史研究』第116号-2017年1月-掲載天野忠幸・樋口健太郎「尼崎市史古代・中世史料補遺」(3)所収)である。『尼崎市史』第2巻は「金蓮寺旧蔵尼崎藩文書」を引いて中在家町は尼崎城の旧地に居住していた漁民たちを移住集居させたものと推論しており、これにしたがえば、中世史料に登場する「中在家」は庄下川の東側、近世尼崎城建設地のうち南側の浜地であった可能性が考えられる。
1866年(慶応2)当時の一筆ごとの屋敷配置が判明する「中在家町絵図」(梶広子氏文書・地域研究史料館蔵)が現存している。この史料は書冊形式で描かれていたが、市民の方による解読と神戸大学地域連携センターの協力によって復元され、町全体を俯瞰して読みとることが可能となった。この復元絵図は地域研究史料館で閲覧することができる。