中谷雲漢

なかたにうんかん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1802年(享和2) - 1875年(明治8)9月30日

『雲漢集』
『雲漢集』

  名は輝、字は南明、号は龍寿軒。雲漢の尼崎藩仕官の時期については、1833年(天保4)、1830年(天保元)の二説がある。前者は雲漢が藤沢東畡に師事し、その後備前難波抱節に学んで、1833年2月に帰郷したことを根拠とし、後者は東畡が著書『青莪録』中に高弟雲漢を1830年に尼崎藩に推挙したとしていることによる。幕末動乱期において藩主の諮詢に応えて信任を得たことは、やがて国元尼崎で藩校設立に際して督学という教学の最高責任者の地位就任をもたらすことになった。雲漢には文集『雲漢集』3冊(1884年・明治17刊)がある。雲漢は父梧庵とともに俳諧を嗜んでいた。雲漢の高弟内田頼重豊島成温は共に藩校正業館の東西両寮の教官として、さらに廃校後も私塾で教育にあたった。墓は寺町善通寺墓地。

執筆者: 竹下喜久男

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