中食満
なかけま
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
園田地区の大字。市域北東部、藻川の西岸、上食満の南、下食満の北に位置する。縄文晩期~古墳時代の藻川川床遺跡と弥生後期~奈良時代の四ノ坪遺跡がある。室町時代の「政所方書」(内閣文書所蔵)の目録中、1439年(永享11)の記録に登場するのが史料上の初見である。
近世初期には幕府領、1626年(寛永3)以降村の小部が大坂城代領・京都所司代領または幕府領、大部は1665年(寛文5)旗本大橋氏(親重系)知行所となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に299石、「元禄郷帳」に301.147石、「天保郷帳」に308.182石とある。内井組と三ツ又井組に属した。氏神は稲荷神社。社の芸能として食満の獅子舞が伝えられている。
1889年(明治22)以降は園田村、1947年(昭和22)以降は尼崎の大字となった。1961年の町名改正と1991年(平成3)の住居表示により東園田町と食満の一部となったほか、一部が田能となった。