中馬興丸

ちゅうまおきまる
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1871年(明治4)2月12日 - 1936年(昭和11)3月14日

  尼崎の浄土真宗本願寺派西性寺(中在家町)に天崎紹印の3男として出生、1889年(明治22)旧尼崎藩医の中馬家の養子となる。大きくわけて医師と政治家の二つの顔をもっていた。すなわち1898年東京帝大医学部を卒業、県立姫路病院副院長、同院眼科医長などを経て1913年(大正2)、尼崎南部工業地帯の進出企業5社の従業員を対象にした共同診療所向島病院を開院。1915年には新しく総合的な中馬病院を建てた。また琴浦育児院の院長や尼崎訓盲院院長をつとめるなどして人々からの信望が厚く、ために1920年の衆院選挙では憲政会から立って当選したのをはじめ計3回、永年の積徳に支えられて当選した。「金のかからぬ選挙」を実現したという。川辺郡医師会・尼崎市医師会会長、学校医等のほかに尼崎魚市場・同青物市場社長、阪神競馬倶楽部理事長等を歴任した異色の人物であった。

執筆者: 芦谷廣安

参考文献

  • 『郷土百人の先覚者』 1967 兵庫県教育委員会
  • 天崎紹雄『面影』 1938 中馬興丸翁追悼記編纂会
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