久々知
くくち
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
小田地区の大字。市域中心部やや東に位置する。地名は、杣山の管理にあたった古代氏族・久々智氏の居住地であったことに由来するという説があり、猪名川または武庫川の舟運により上流で切り出された木材が運ばれ、この地域で集積・加工された可能性がある。史料上の初見は1191年(建久2)「観福寺大般若経奥書」(『尼崎市史』第4巻)で久々智村とある。橘御園の荘域に属したほか、下坂部荘に属したとされている。南北朝~戦国時代の争乱に際して、諸将がしばしば陣を構えた。
近世初期には幕府領または大坂城代領・大坂定番領、1694年(元禄7)(あるいは1686年・貞享3とも)武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)の領地、1823年(文政6)幕府領、1928年(文政11)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」「天保郷帳」のいずれにも1,165石とある。大井組に属した。氏神は須佐男神社(近世には久々知妙見)。寺院は真言宗善通寺派円安寺・臨済宗大徳寺派正眼寺・日蓮宗広済寺。広済寺は元来妙見宮の神宮寺であり、近松門左衛門ゆかりの寺院として名高く境内には近松の墓がある。
1889年(明治22)以降は小田村、1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。1970~1981年の住居表示により久々知・久々知西町となったほか、一部が南塚口町・名神町・東塚口町・尾浜町・上坂部・下坂部・若王寺〔なこうじ〕・潮江となった。