久保田鉄工所尼崎工場/武庫川工場
(久保田鉄工尼崎工場より転送)
1890年(明治23)、大阪南区内に「大出鋳物」の看板を掲げた大出(のちに久保田)権四郎が、幾多の試行錯誤の後、1900年、合わせ目のない鋳鉄管を作り出すことに成功した。それから約10年、久保田鉄工所は「難波のクボタ」として知られ、従業員1,200人、鋳鉄管市場シェアの半ばを占めるまでに成長していた。
上水道や都市ガスの普及につれて、激増して来た鉄管需要は、1912年(大正元)の約7万トンをピークに一転下降に転じていたが、そのころ、関西鉄工(株)買収の話が持込まれた。この工場(敷地4万2,900m2)は大阪鉄工所(のちの日立造船)が、尼崎町西大洲(新城屋新田、現西向島町)に公称年産能力2万5,000トンのドイツ製機械を据え、1912年から鋳鉄管を生産していたものであった。1916年5月1日、同工場が独立して関西鉄工となり、工場施設は大阪鉄工所から関西鉄工に譲渡された。買収が成立して、1917年8月久保田鉄工所尼崎工場が発足、大阪南の本社工場から設備が移設され、1919年初から鉄管、つづいて鋳造品の生産が始まった。従業員は600人であった。時を同じくして1918年、隣接地(3,300m2)には原料の鉄を作る目的で資本金200万円の関西製鉄(株)が設立されたが、折悪しく第1次大戦終結による不況に際会して採算が見込めず、1920年末に閉鎖された。
大戦後、ほとんどの産業が沈滞するなか、鉄管の需要は1918年の6,000トンを底に上昇し始め、それにつれて尼崎工場の生産も拡大、1928年(昭和3)末の年産高は8,000トン、従業員数は1,030人であった。
1937年銑鉄の自給を狙いとして、大庄村又兵衛新田(現尼崎市大浜町2丁目)に尼崎製鉄(株)が設立された。資本金500万円は、(株)尼崎製鋼所との折半出資によるものであった。そして、隣接する敷地13万3,800m2(同前)には、1939年から1941年にかけて銑鉄から直接鋳管を製造することを企図した武庫川工場が建設された。折からの戦時経済統制によって直鋳は実現しなかったが、この工場は大口径の遠心力鋳鉄管などの主力工場となるとともに、併設された機械工場は産業機械・工作機械製造のセンターとなった。1941年陸軍管理工場に指定された。
両工場とも空襲の被害はほとんどなく、尼崎工場は1946年初めから、武庫川工場は同年末から鋳造作業を再開した。1953年社名を久保田鉄工(株)に、創業100周年の1990年(平成2)4月には(株)クボタと改称した。
1954年(昭和29)、石綿管製造のため長洲字深田(現浜1丁目)に神崎工場を建設した。
参考文献
- 『久保田鉄工八十年のあゆみ』 1970
- 『クボタ100年』 1990