久保田鉄工所争議
くぼたてっこうしょそうぎ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1917年(大正6)関西鉄工を買収して発足した久保田鉄工所尼崎工場は組織人員も多く、戦前尼崎地方労働運動の一中心舞台となった。1921年7月6日大阪の本工場労働者らと呼応して横断的工場委員会・解雇手当制などを要求してストに入った。工場委員会を勝ち取り一旦は妥結したが、制度が不徹底だとして21日鉄管部140人を中心に400人が再びストに入り、会社は150人を解雇したが調停者が入り労働者側有利に解決した。1924年3月鋳物工98人が賃上げを要求してストに入り会社に譲歩させ、1926年11月27日と1928年(昭和3)7月14日にも請負単価引下げ反対闘争が組織された。総同盟第3次分裂後の1929年10月以降は3派に分立し組合員争奪非難中傷合戦を繰り広げたため、同年12月会社が発表した140人の解雇に対して有効な反撃がなされず、会社が総同盟を唯一の交渉団体としたため以後全国同盟の勢力は衰退した。この後準戦時体制下の1936年2月と4月にも賃金要求の争議が記録されている。