乾鉄線争議

いぬいてっせんそうぎ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1927年(昭和2)春の金融恐慌勃発下に大庄村道意新田乾鉄線で労働争議が発生、尼崎地方全域の労働運動にも絶大な影響を及ぼした。同社は1917年(大正6)に鉄線・鉄条網・ワイヤロープ製造工場として創立、その後設備の立ちおくれを朝鮮人の大量雇用など労働強化で補い、急成長した。1926年2月の争議支援を契機に総同盟(のち組合同盟)加入者が漸増、1927年(昭和2)3月27日には330人で乾鉄線支部を結成した。メーデー当日は全従業員が欠勤して参加、それが支部幹部の解雇を招き、5月6日、全従業員420人余(うち朝鮮人80人余)がストに突入した。争議指導部の内部対立から6月2日には調停が不成立、8日の工代会議も街頭的なものにとどまり、同日以降、職場復帰者が漸増、27日には県調停課長の立会いで解決書に調印して65人が解雇され、通常の7割の解雇手当を受領した。

執筆者: 岩村登志夫

参考文献

  • 岩村登志夫「乾鉄線争議と尼崎工代会議」『兵庫史学』第49号 1968
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