二部教授・二部授業
にぶきょうじゅ にぶじゅぎょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
日清戦争後の就学率の向上にともない校舎・教員の不足が生じたため、多くの小学校で採られた変則的な授業方法。例えば立花小学校では、1903年(明治36)学級数が急増したので3年以下を午前と午後にわけた半日二部教授とし、1913年(大正2)には1・2年生は半日二部、3・4年生は全員同時登校させるが隔時的に授業を行ない、残り半分の生徒には自習させる全日二部とした。そのほか1人の教員が複数の学年を担当する複式学級も行なわれた。兵庫県では優秀な教員による教育効果が大きいとして全日二部制を積極的に奨励した。第1次大戦後もこの制度は存続し、1925年小田第三小学校の新設をはじめ大正末期以降学校施設の充実にともなって全日二部制は次第に解消されたが、半日二部制は第2次大戦中まで存続した。