井組
ゆぐみ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
灌漑技術、治水築堤工法の発達とともに、16世紀後期(永禄~天正年間)、武庫川・猪名川筋でも、堤に六樋をはじめとする多くの取樋口が設けられ、締め切られた河川敷内の流れを用水源として取水がなされるようになった。これを機に河水の配分が問題となり、向かい合った用水や隣接する用水の間で、この時期に争論、乱闘、訴訟が継起した。これを機に、たとえば富松井では野間・友行(まもなく時友も)村、大島井では旧大島荘4か村、大井では田中村以下8か村などの村々が、それぞれ争論、交渉の主体として、井組としてのまとまりを強くしていった。後に各用水の井親となるこれらの村々の結合は、第一次井組といってよかろう。このようにして河川を用水源とするようになって、用水にも余裕が生じると、やがて各用水の下流の村々は余水をもらう交渉を進め、16世紀末から17世紀初めにかけて、井子村々が加わった井親・井子からなる第二次井組が結成されていった。この井組内での井親・井子の関係は、初めは井子は井親に井料を払い、井普請などを負担するなど、両者の間にかなりの差等が存するものであった。しかし近世に入って結成された新しい井組では、井親・井子間の差等は少なく、なかにはどの村が井親なのかもわからない井組も生じている。そしてさらにその後、井組内の争論を通じて、井親・井子間の差等が解消され、井掛り高に応じて平等配水する方向に向かったといえる。