人民戦線運動

じんみんせんせんうんどう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

  1935年(昭和10)夏のコミンテルン(共産主義インタナショナル)第7回大会でも追認された広範な民主勢力を結集する反ファシズム人民戦線戦術は、共産党およびその影響下の全協、全農全会に根強く存在した非合法主義的偏向に是正を迫った。西村好成らも全協再建の迂回戦術として、1934年12月には阪神一般化学労働組合を全評阪神地方協議会に改組、全農全会兵庫県連合会常任書記の羽原正一らは1935年9月に同県連を全農総本部派へ復帰させて、1936年9月には社会大衆党神戸支部への接近も試みた。1936年12月5日の共産党中央再建準備委員会事件で全農県連生津〔なまづ〕支部長奥田末治・西村・羽原らも検挙され、1937年4月の衆院選には、社大党県連の拒絶にもかかわらず、同党候補への支持が全農県連から表明された。起訴を免れた奥田・羽原らは、社大党、全農の右施回に直面して、1938年2月、全農県連を兵庫県農民連盟に改組、1939年7月には東方会摂陽支部を結成して1943年10月の東方同志会関係者一斉検挙まで右翼団体の装いで存続した。

執筆者: 岩村登志夫

参考文献

  • 岩村登志夫「戦時体制下の農民運動」『地域史研究』第6巻第3号 1977
  • 『戦前尼崎の労農運動』 1979 尼崎労農旧友会
案内
広告
検索

  
ヘルプ
ツール
索引