伊丹の俳諧
いたみのはいかい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
17世紀初め経済的発展によって多方面の学芸が盛んになった伊丹からは、岡島重紀〔しげのり〕が最初に松永貞徳の門に入り、1651年(慶安4)刊の『崑山集』〔こんざんしゅう〕の19句を始めとして種々の貞門俳書に入集する。1674年(延宝2)春、伊丹に来遊した京の維舟〔いしゅう〕に同行した門下の宗旦〔そうたん〕はそのまま伊丹にとどまり、也雲軒〔やうんけん〕という俳諧や和漢の学を教える私塾を経営、彼を中心として伊丹風と称する豪放な俳風が栄えた。その門から出た若手俳諧作者が上島鬼貫や森本百丸で、『当流籠抜』〔とうりゅうかごぬけ〕(1678年)などの俳書が出版される。伊丹俳壇は早くから大坂俳壇と交流が深かったが、18世紀初めごろからは大坂の椎本〔しいがもと〕才磨、ついで半時庵〔はんじあん〕淡々と結び付く。中興期には坂上蜂房(竹瓦楼)が活躍し、蕪村門には山本東瓦〔とうが〕がいた。後期を代表するのは、岡田糠人〔ぬかんど〕や梶曲阜〔きょくふ〕であった。伊丹俳壇は近世を通して趣味性の高いものであったといえる。
参考文献
- 岡田利兵衛『近世における伊丹文学の展開』 1990 柿衛文庫