伊丹元扶
いたみもとすけ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
? - 1529年(享禄2)11月21日
戦国時代の武将。摂津国人伊丹氏の正嫡で、国扶〔くにすけ〕は彼の子か一族とみられる。官途は初め兵庫助、ついで大和守。1508年(永正5)4月、細川高国が細川澄元に反して挙兵したとき、内藤氏以下の細川被官と連合して京都攻めに加わった。澄元の摂津守護代三好之長への反目が因とされる。1511年の京都船岡山合戦の時は、澄元党の赤松義村の包囲を伊丹城で固守した。1520年2月澄元党の攻撃では支え切れず城を捨てて逃亡、同城は翌年5月まで澄元の本陣となった。1527年(大永7)の京都桂川合戦の時は高国党として城をよく固守したが、程なく三好元長に降り、そのため柳本賢治の攻撃を受け、1529年(享禄2)11月城を枕に自刃した。
参考文献
- 『伊丹市史』第1巻 1971