伊丹酒造業
いたみしゅぞうぎょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
江戸時代に入って、上方では「下り酒」として江戸積酒造業が発展していったが、その中心は伊丹であった。1695年(元禄8)刊行の『本朝食鑑〔しょくかがみ〕』によると、江戸積銘醸地として伊丹があげられ、白米と白麹をもって仕込まれる伊丹諸白〔もろはく〕を、「近代絶美なる酒」として称賛している。1698年には上方より江戸に送られた下り酒64万樽に達し、その主要酒産地は伊丹・池田であった。当時の文豪井原西鶴は『織留』のなかで、「軒を並べて今の繁昌」とのべ、酒造りによって分限者の隠れひそんでいる伊丹の様子を描いている。1740年(元文5)には伊丹酒は将軍の御膳酒となり、「丹醸」と称して歓迎された。『摂津名所図会』によると、「名産伊丹酒酒匠の家六十余戸あり。みな美酒数千斛〔こく〕を造りて、諸国へ運送す」とのべ、なかでも山本氏(木綿屋)の老松、筒井氏(小西)の富士白雪、八尾氏(紙屋)の菊銘酒が好評を博したとしている。しかし18世紀後半には、灘酒造業の台頭によって交代せざるを得なくなっていった。
参考文献
- 『伊丹市史』第2巻 1971
柚木学『酒造りの歴史』 1987 雄山閣出版