伝染病
でんせんびょう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
上下水道が整備されず、衛生状態の悪かった時代には、ひとたび伝染病が流行すると深刻な被害をもたらした。近世以前にも多く流行したと思われるが、詳しい記録が残っているのは近代以降である。市域では人口の密集した尼崎町での被害が大きく、1879年(明治12)・1885年・1890年・1895年とほぼ5年周期で、伝染性が強く死亡率も高いコレラが流行し、1882年の大洲村への避病舎設置をはじめ検疫・治療・遺体処理などの費用が町財政を大きく圧迫した。その後も伝染病被害が続き、日露戦争(1904~1905年)以降は、人口集中の結果コレラに加えて赤痢・腸チフスなど消化器系の伝染病が慢性化し、ペストの流行も見られるようになる。1920年代に入ったころから、都市化の進んだ小田村でも伝染病が蔓延していった。その後一時下火となったが、1937年の日中戦争開始のころから再び大流行し、これに対して市は1938年7月浜に市立尼崎病院(伝染病院)を新築して城内から移転した。太平洋戦争後半から1945年の終戦後の混乱期には患者・死者とも激増し、1946年には尼崎市で患者1,181人、死者174人と最高の数字を示した。その後は衛生環境・医療技術の改善によって減少していった。