住友金属工業プロペラ製造所
海軍軍縮以来航空戦力に着目し、素材から完成品まで、軍用機の国内自給を望んでいた海軍の要請に応じて、住友伸銅所は1933年(昭和8)5月22日、大阪市此花区桜島の工場の一角に年産能力300本のプロペラ工場を設置、中島飛行機から譲り受けた米国ハミルトン社の製造技術をもって、航空機用プロペラの完成品生産に乗り出した。1935年9月17日には住友金属工業(株)と改称、翌1936年には年産1,800本の生産実績をあげ、1937年11月10日、伸銅所からプロペラ工場を分離して住友金属工業プロペラ製造所を発足させた。同年の日中開戦とともに海・陸軍の増産要求はますます強く、1年半に8次にも及ぶ設備拡張、4年間に23倍の7,000人にも激増した従業員によって対応できず、新工場建設が企図された。
新工場は1938年、尼崎市北難波町(現扶桑町)に33万m3の用地を取得、予定より遅れはしたが1941年4月11日、プロペラ製造所神崎支所が操業をはじめた。当初450人だった従業員は、1943年から支所が名実ともにプロペラ製造の本拠となるにつれて急増、1944年には1万2,600人に達した。しかし半ば近くは非熟練の徴用工と動員学徒であり、女子に至っては3,200人中73%が学生と女子勤労挺身隊であった。1945年はじめからは工場の緊急疎開がはじまり、生産設備が豊中・池田・三田・海南などに分散されたが、同年6月15日の空襲では米軍機による焼夷弾攻撃を受け建屋の大半を焼失、工場機能を停止した。敗戦後は賠償指定工場となり、1948年以降は駐留米軍神戸補給廠が接収、特殊車両整備工場などが設置された。講和条約後も施設提供が継続し、1957年10月になってようやく神戸補給廠の施設が神戸に転出した。一方、1953年に復活したプロペラ部は、1956年航空機器事業部となり、1961年1月5日には資本金5億円の住友精密工業(株)として新発足した。尼崎に本社を置く数少ない上場会社の一つであり、1970年大証・東証2部の上場、翌1971年1部に指定替えになった。
参考文献
- 『住友金属工業六十年小史』 1957
- 『住友精密工業社史』 1981