年表:
世紀: 16世紀 - 17世紀 - 18世紀
10年紀: 1650年代 1660年代 1670年代 - 1680年代 - 1690年代 1700年代 1710年代
各年: 1680年 1681年 1682年 1683年 1684年 1685年 1686年 1687年 1688年 1689年
1680年から1689年までの10年間を指す。
1680年代の年表
- 1681~88年(天和・貞享ごろ)
- 尼崎城下の町人の人口は1万5,113人、家数は1,475軒であった。
- 1682年(天和2)
- 4月14日 - 道意新田の下百姓12人が地親の非分を尼崎藩に直訴した事件について、下百姓3人の入牢および地親から地親から下百姓へ検地帳写しを渡すなどの裁決が下った。
- 6月26日 - 尼崎の馬借は、伊丹・昆陽・小浜など7か所の馬借とともに猪名川通船の願い出に対して、馬借の稼ぎがなくなると幕府奉行所へ反対の訴願をした。
- 1683年(天和3)
- 3月 - 幕府が摂津・河内両国の水路巡察のために派遣した若年寄稲葉正休らが、神崎川から尼崎を巡視した。
- 1684年(貞享元)
- 6月 - 尼崎藩は、高15石以下の農民の分割相続禁止をはじめ諸役・諸懸り・小物成についての定め34か条を触れた。
- 8月2日 - 尼崎藩主青山幸利が尼崎で没した。同16日領内の八部郡坂本村に葬られた。
- 9月29日 - 青山幸督が尼崎藩主を継いだ。
- この年 - 青山幸督が大物の安養寺を八部郡坂本に移し、菩提寺とした。
- この年 - 又兵衛新田が西新田村地内に開発された。
- 1685年(貞亨2)
- 8月25日 - 青山幸督が、家督相続後初めて尼崎に入部した。
- 12月 - 尼崎藩は、検見による年貢高皆納すべきことなど年貢米収取その他について46か条の法度を触れた。
- この年 - 尼崎藩は、一味徒党の禁止、野山井水争論や公事訴訟などについて53か条の法令を触れた。
- 1686年(貞亨3)
- 3月 - 神崎川の川浚えが国役普請として行なわれた。
- 4月25日 - 尼崎藩主青山幸督が、成覚院(幸利)の霊供料として高50石を安養寺に寄進した。
- 7月24日 - 大風のため道意新田の堤が切れた。この時尼崎藩からのお救い扶持と地親の扶持米が支給された。
- 8月 - 尼崎藩は幕府の許可をえて藩主の菩提寺安養寺の四至を定めた。
- 11月9日 - 尼崎藩は石盛・免など8か条の道意新田定めを地主あてに下した。
- 1687年(貞享4)
- 1688年(元禄元)
- この年 - 大井組東川筋6か村は字八躰堂の地点での分水をめぐって、西川筋2か村を相手取り水論を起こした。
- 1688~1704年(元禄ごろ)
- 中在家町の戎の浜に魚市場があって、京都辺へ行く商人も含めておよそ1,000人の魚商人が出入りしたと伝えられる。