六島誠之助
ろくしませいのすけ
(公声会より転送)
(公声会より転送)
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1894年(明治27)12月7日 - 1954年(昭和29)5月28日
公選初代の尼崎市長。在任期間は1947年(昭和22)4月6日~1951年4月4日の1期。旧城郭内に生まれる。事業家であった父静三は、旧城地北の沼沢地に六島新田を開発・経営、のち城内土地会社の事業として誠之助に引き継いだ。尼崎第一尋常小学校(現明城小)・尼崎高等小学校・兵庫県立伊丹中学校を経て1915年(大正4)早稲田大学予科に入学、1920年同政治科卒業、この年卒業までの数か月間阪本勝と同寮であった。卒業後帰郷し尼崎市政批判会を設立(のち公声会と改称)、政治新聞『新尼崎』を発行(のち『摂陽新聞』と改題)するなど政治活動を開始。1922年8月兵庫県会補欠選挙に当選、以後2度の落選をはさんで4期県議を務め、1931年(昭和6)6月には民政党に入党、1939年同党尼崎支部長となった。戦時中は大政翼賛会県支部・市支部顧問なども務めた。
戦後は1946年4月の衆議院選挙に落選、1947年4月尼崎市長選挙に当選、初の公選市長として戦後復興・防潮堤建設などにあたった。1951年4月(防潮堤工事着工の翌月)、2期目を目指して市長選に出馬したが阪本勝に敗れた。なお、長男博郎が誠之助を襲名し、1990年(平成2)から1994年まで尼崎市長を務めた。
参考文献
- 藤本邦之輔『評伝六島誠之助』 1955 六島誠之助伝記編纂会