六車郷
むぐるまごう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
平安時代からあった郷。原田荘・原田郷とも呼ばれ、春日社領垂水西牧の北郷のうち。「中右記」1097年(承徳元)2月6日条に「摂津国六車庄住人事」とあるのが初見。「中臣祐賢記」1265年(文永2)8月条には、六車郷の下司が春日大社に非協力であったので、この下司を追放したことが見える。同郷の本所は近衛家、領家は春日大社で、六車郷の住人が郷内の春日末社の神木を汚したことなどによりこの事態となった。寛正年間(1460~1466)に原田荘は牧務領とされ、牧務職に正真院が近衛家から任命されている。興福寺は西牧の管理権をたてに六車郷を含む北郷全域に勢力拡大をはかり、戦国時代になると管領細川氏とその摂津国内の国人池田氏・田能村氏ら被官との対立を強めていった。