共産党
きょうさんとう
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
1921年(大正10)4月に山川均らにより準備会が持たれ、1922年7月15日第1回大会で暫定綱領・コミンテルンへの加盟を決議、中央執行委員長堺利彦を選出して非合法下に発足。1923年6月の第1次共産党事件と関東大震災にともなう弾圧で一部に解党決議もなされたが、1926年12月第3回党大会で再建(中央委員長佐野文夫)。日本労働組合評議会を掌握し、浜松日本楽器・撫養〔むや〕塩田(徳島県)など大争議を指導した。しかし、1928年の3.15事件、1929年の4.16事件を頂点とし1931年の8・26京阪神党組織検挙など間断なき激しい弾圧にさらされ、1935年3月機関紙『赤旗〔せっき〕』が停刊、中央委員会は破壊された。3.15事件直前の尼崎の共産党は、関西地方委員会(委員長春日庄次郎)傘下の大阪地方委員会に属し沖田伊佐治・多田宇一郎・葛野友太郎・上森四郎らが指導部を形成した。1927年の乾鉄線争議に同党の国領巳三郎が関与した。1937年12月春日庄次郎らが尼崎で日本共産主義者団を結成したが一斉検挙を受けて消滅した。なお、1921年3月をもって党創立とする岩村登志夫氏の異説がある。
参考文献
- 『日本共産党の六十五年』 1988
- 『大阪労働運動史研究』創刊号 1980
- 岩村登志夫「お天気と歴史-日本共産党創立神話-」『思想』715号 1984 岩波書店