兵庫津陣屋
ひょうごつじんや
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
近世前半期(1617~1769年)に尼崎藩領であった兵庫津は、人口約2万、海陸交通の要衝で、藩内でも最大の町場であったが、藩庁(尼崎城)からは離れている。そのため藩では、兵庫奉行(享保年間・1716~1736の例では100石ほどの家臣が任じられており、役料は30石)を常駐させた。その出先役所が、旧兵庫城の跡に置かれ、通常「御陣屋」時には「御屋敷」とも呼ばれた。東西約130m、南北約140mほどの、四方を堀に囲まれた地に、7室以上の公用の部屋、10室をこえる生活用の部屋、長屋、納屋・土蔵など一連の建物群があった。公用建物の外側には一般人の控所にあたる腰掛や、表口には時鐘、南側にやや離れて牢屋敷も備えられていた。出入りは東側に表口、西側に裏口がある。藩からの触れや伝達、事務的な連絡や諸願・届けなどは、町方から名主・惣代をはじめ関係者が出向いて行なわれた。