兵庫裁判所
ひょうごさいばんしょ
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
兵庫裁判所の前身は、1868年(慶応4)正月11日神戸三宮の居留地での備前藩兵と外国兵との衝突事件の解決のため、政府から派遣された軍事参謀東久世通禧〔ひがしくぜみちとみ〕が設置した兵庫事務局である。同事務局は外交交渉を担当することからはじまったが、他方では兵庫開港場とその周辺の旧幕府領の民政を管掌した。正月22日同局を廃して兵庫鎮台が置かれ、さらに翌月2日兵庫裁判所と改称された。兵庫裁判所は外国事務と民生事務を取り扱う行政機関で、外務局と内務局が置かれ、現在の意味での裁判所とは異なる。同裁判所の民政事務の管轄は、兵庫開港場のほか摂津国の武庫・川辺・菟原〔うはら〕・八部〔やたべ〕・有馬・豊島〔てしま〕・西成・東成の8郡および河内国茨田郡の旧幕府領に及んでいた。市域では、旧代官斎藤六蔵支配の清水・田中・椎堂・法界寺・瓦宮・小中島の各村ほか、善法寺・万多羅寺・上食満・中食満・下食満・富田・潮江の各村の一部と猪名寺流作地がその管轄下に入った。3月19日東久世が横浜裁判所総督に転任し、大坂裁判所総督醍醐〔だいご〕忠順が兵庫裁判所兼摂となった。5月23日兵庫裁判所は兵庫県(第1次)と改称されるとともに、武庫・菟原・八部・有馬4郡のみがその管轄下に残り、その他は大坂府所管となった。
参考文献
- 『兵庫県史』第5巻 1980