兵庫関悪党襲撃事件
ひょうごのせきあくとうしゅうげきじけん
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
鎌倉中期以後、要港・要津に多くの関所が設置されると、商業・運輸業者らの大きな障害となり、関所に対する敵意や抵抗が激化してきた。兵庫関では、鎌倉末期に、「悪党」と呼ばれる住人による襲撃事件が数回おこっている。とくに、1315年(正和4)のばあい、その悪党集団は、借上(金融業)を営む延暦寺の僧を筆頭に、淀・島本・垂水・加島などの淀川流域から、尼崎・西宮・打出・兵庫など大阪湾沿岸地帯の住人90人余名よりなっていた。尼崎の住人は、松次郎・松熊三郎入道・中五郎・熊松右衛門尉・同子息・宮王四郎入道・江三・石見房の8名で、そのなかには、商人・問丸や長洲荘の番頭などもいた。したがって、「悪党」と呼ばれた集団の大部分は、こうした住人であったとみてよい。