凡河内氏
おおしこうちし
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
河内の国造を務めた古代の有力豪族で、直〔あたい〕の姓〔かばね〕を与えられていた。国造のなかでも姓に「凡〔おおし〕」を含む豪族は、のちの律令制の国に相当するような広領域を支配したと考えられている。凡河内氏ものちの和泉を含む河内地方を支配しただけでなく、西摂地方にまでその支配を及ぼしていたようである。そのことは律令時代に入った706年(慶雲3)に、凡河内忌寸〔いみき〕石麻呂が摂津国造に任命されていることによっても察せられる(続日本紀)。また河内国魂神社が摂津国菟原〔うはら〕郡にあったことや、凡河内寺が同国雄伴〔おとも〕郡にあったこと(天平十九年法隆寺伽藍縁起並流記資材帳)などから、凡河内氏の元来の本拠地は西摂にあったとする節がある。凡河内氏の全盛期は6世紀で、記紀に大河内稚子媛〔おおしこうちのわくごひめ〕が宣化天皇の妃となったことがみえるが、その所生の火焔皇子は為奈真人・椎田君・川原公の祖と考えられる。
参考文献
- 吉田晶『日本古代国家成立史論』 1973 東京大学出版会