別所
本庁地区の大字。市域南部中央、庄下川の西岸、旧城下町西側部分およびその北側が村域である。尼崎町から西に広がった地を意味するという説や、重源〔ちょうげん〕上人が東大寺大仏殿再建のため各地に設けた事務所を別所と称したことから、東大寺の尼崎木屋所をも別所と呼んだことに由来するという説、本興寺の別所(寺院に付属する周辺地)とする説などがある。史料上の初見は1458年(長禄2)「通玄寺領目録」(曇華院殿古文書/『地域史研究』第8巻第2号)。1569年(永禄12)には信長勢が陣をかまえて矢銭を強要するなど、戦国時代には諸将が在陣した。
近世には1615年(元和元)建部政長の領地となり、1617年の戸田氏鉄入部以降は尼崎藩領であった。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」に553.01石、「天保郷帳」には779.24石とあり、「天保郷帳」の記載高には竹谷新田を含んでいると考えられる。1618年に開始された尼崎城の築城に際し、同村南の浜地に城下町の西側部分が建設され、東屋敷の一部や寺町・西屋敷などは別所村の村域に含まれることとなった。天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数123軒、人数679人および借家人300人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には家数215軒、人数1,270人とある。氏神は近世には戎太神宮であったが近代には事代主神社となり、昭和初年ころ戎神社と改称、さらに1945年家屋疎開の対象となったため神田中通へ移転した。また寺町の諸寺が同村域に属する。
1889年(明治22)以降は尼崎町、1916年(大正5)以降は尼崎市の大字となった。1905年(明治38)には阪神電鉄の庄下停留場(のち尼崎駅)が開設された。村域南部の本町筋が本町通商店街として栄えたが1945年(昭和20)家屋疎開の対象となり消滅した。1930年の町名改正・1933~1964年の土地区画整理と1967年の住居表示により御園〔みその〕町・西御園町・寺町・建家町・東桜木町・西桜木町・汐町および、西難波〔なにわ〕町・東難波町・昭和通・昭和南通・神田北通・神田中通・神田南通・開明町・西本町・西本町北通・中在家町の一部となり、別所村という地名は消滅した。