大坂から西宮に通じる中国街道の宿駅として、尼崎城下別所村におかれた江戸時代の駅所。神崎駅と同じく、尼崎藩の保護をうけて幕府の公用のためだけに人馬の継ぎ立てを行ない、諸大名の御用などの公用のばあいは大坂-西宮と継ぎ立てた。駅所としての最盛期は元禄~享保期(1688~1736)で、1744年(延享元)の文書にはかつて82匹の馬がいたと記されている。尼崎町の馬と尼崎近在村々の馬は豊臣氏時代からの既得権として駄賃稼ぎが公認され、尼崎駅は伊丹および近在の酒荷物の継ぎ立てによって繁栄したが、幕府指定の駅馬ではなかったため、伊丹駅や昆陽駅の馬借と争論がおきた。
執筆者: 地域研究史料館
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