総同盟大阪連合会
(友愛会より転送)
1917年(大正6)2月18日の友愛会神戸連合会についで5月19日に同大阪連合会が発足した。これらに先立つ1916年12月から1917年1月に友愛会尼崎分会が会員20人で成立したが、1917年8月ごろには自然消滅の模様。1918年の米騒動をへて、同年12月の神崎支部、翌1919年3月の武庫川支部、同年6月ごろの尼崎支部結成が相次ぎ、8月に友愛会が総同盟へ改称した後の10月31日、尼崎支部第1回総会を開催、支部長・会計検査に大日本紡績解雇者の山野久七・堀内鉄丸、会計係には理容店主の坂口萬太郎を選び、1920年1月には阪口が支部長代理を兼ねた。市庭町の阪口の店舗に支部事務所がおかれ、総同盟大阪連合会の指導をうけた。東亜セメント争議さなかの1921年3月3日に尼崎支部発会式をあらためて開催、6月14日には東亜セメント解雇者の矢野武雄らを中心に、同工場・久保田鉄工所・大日本木管・武川ゴムの4支部に再編した。9月15日の尼崎合同組合結成には4支部と日本リーバ・ブラザーズの武庫川支部が加わった。翌1922年6~7月の住友伸銅所争議には大阪連合会はその支援を決定したが争議は敗北し、同工場の伸銅工組合は解散、総同盟は尼崎の一拠点を失った。10月20日総同盟尼崎連合会が結成されたが名目的なものにとどまった。しかし組合運動の発展とともに1925年9月5日久保田支部が中心となって大阪連合会から組織的に独立した尼崎連合会が結成された。
1912年(大正元)8月1日に結成された友愛会が、その後労働組合運動としての性格を明確にするなか1919年8月30日に大日本労働総同盟友愛会と改称、1920年10月3日に「大」を削除し日本労働総同盟友愛会と改称、1921年10月3日に「友愛会」という名称を廃止し日本労働総同盟と改称した。その後曲折を経て、戦時体制下の1940年(昭和15)7月21日、自発的解消と称して組織を解散し、産業報国運動に合流した。
参考文献
- 阪口萬太郎「創成期の友愛会尼崎支部の思い出」『地域史研究』第8巻第1号 1978
- 『戦前尼崎の労農運動』 1979 尼崎労農旧友会