古墳時代
こふんじだい
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
弥生時代には剣・玉・鏡を副葬する北九州首長墓や副葬品を納めない近畿首長墓など地域首長の墓が発生し、また近畿から発生し吉備(現岡山県)を除いて全国に波及した方形周溝墓の墓制もみられ、古墳発生の下地はすでにできていた。しかし、弥生時代にみられない巨大な権力と富と統制力を象徴する古墳が築造されたのは、奈良県城にある纒向〔まきむく〕石塚古墳(210年ころ)・箸中山〔はしなかやま〕古墳(250年ころ)を初源とする。したがって3世紀初頭からはじまり、7世紀末期をもって古墳の終末と考えてよい。4~5世紀は巨大古墳の築造された時期であるが、形式は前方後円墳が主で、全長150m以上の巨大古墳は大和・河内に集中している。これらは地域首長墓ではなく、倭国王権の大王墓群と考えられる。
尼崎市域では4世紀後半に古墳が出現する。水堂古墳では、鏡・剣・胡籙〔ころく〕など地域首長の権威を示す副葬品がみられ、埴輪〔はにわ〕や玉がみられないのも特色であった。つづいて塚口・園田の地域に4世紀後半の池田山古墳、5世紀後半の御園古墳、5世紀末の伊居太古墳などの前方後円墳が形成された。市域の特長は、これら首長墓が遺存していただけでなく、若王寺遺跡のような同時代の集落跡が検出されていることである。その他、桂木・田能西・猪名寺・園田競馬場内・四ノ坪・瓦宮・口田中・西川・戸之内・善法寺・久々知・東富松・尾浜などの遺物散布地や包含地に古墳時代の生活痕をみることができる。これらの地域が古墳時代の主たる集落地域であった。