合同紡神崎工場争議
1913年(大正2)大阪合同紡績神崎工場が常光寺に建設された。同工場では1918年賃上げ要求のスト、1919年にも7割の大幅賃上げ要求闘争が実施されたが、総同盟分裂後組合同盟系日本紡織労働組合と総同盟系尼崎紡織労働組合の両組合が同工場労働者の組織化に努め勢力拡張にしのぎを削っていた。1929年4月同工場は深夜業廃止に踏み切ったが、組合同盟系は4月21日従業員大会を開いて要求書を提出、続いて総同盟系も26日要求を提出した。組合同盟系が藤岡文六らの交渉でいち早く妥結し、総同盟系も会社の譲歩を獲得したが、深夜業廃止にともなう賃金引き上げは実現しなかったため、総同盟系は5月3日再び要求書を提出した。会社回答を不満とする労働者1,000人は工場を脱出してストに入ったが、両者の共闘は成立せず、天皇行幸を理由とする警察の干渉で要求撤回、60人の解雇承認で終結した。
『尼崎の労働運動史年表』によれば、1929年5月の具体的経過は次のとおりである。
3日 尼崎紡織労組はさきの嘆願書を撤回し、改めて賃金2割値上げ、退職手当制定の嘆願書を提出、これより大争議に入る
6日 合同紡は上記嘆願書を拒否、閉じ込められた職工600人はトタン塀を押し倒して脱出、
これに通勤女工200人が加わり稲川新田で職工大会、警察は脱出者のうち50人を検挙
8日 合同紡寄宿舎女工が脱出しストに合流しようとして、会社および警察と衝突
9日 合同紡争議、行幸をひかえ警察の強制調停によって妥結、嘆願書撤回、職工60人解雇、金一封支給で組合側の全面敗北に終わる
22日 総同盟尼崎紡織労働組合神崎支部発会式並びに演説会、稲川新田空工場で、出席者男工650人、女工100人、
犠牲者救済方法などを決定、支部長稲見常、弁士鈴木文治ほか
参考文献
- 『尼崎の労働運動史年表』 1982